自分の中から湧き出てくるもの、自分の元に聞こえてくるものに対して、
「正しい」か「正しくない」かの判断は、
その人自身も、ほかの人たちも、する必要はないのかもしれない。

それが、世間や考えの反映だったり、
周りの人たちに言われてきたことの積み重ねだったりしたら、
そのジャッジは有効かもしれないけれど…。


自然の草木の存在を、「正しい」か「正しくない」かの判断はしない。

雑草は「正しくない」部類に入れられてしまうけど、
それは後からやってきた人間の勝手な都合によるもので、
自然の世界では、立派に生きている「正しい」ことに値するでしょう。

それ以上に、すばらしいもの。


誰もが美しいと絶賛する桜の木も、
多くの人が嫌がる夏の生い茂る草も、
どちらもすばらしい。

それは「正しい」かどうかではないように思う。


だから、素直な人間の心の中から自然に湧き出すものは、
すべてすばらしい!


そう思えたら、自分から湧き出ることに、
もっと陽の光を当てたくなるね。
「やさしさ」には、大きく分けて2種類あると思う。

“薄っぺらいやさしさ”と“深みのあるやさしさ”。


「あら、私って気が利くわぁ」「きっと感謝されちゃうわぁ」なんて思ってやる行為は、
“薄っぺらいやさしさ”。

そのやさしさを与えている側は、いい気分。

でも、与えられている側にその薄っぺらさが見えてしまうと、
「やさしさ」ではなくなるように思う。

世の中にはいろいろなサービスが仕事になっているので、
そういう表面的なやさしさは、お金を出せば手に入る。


そうでない“深みのあるやさしさ”って、触れた瞬間に

心が揺さぶられる。
涙が出てくる。

なにが違うのだろう…。
輝いている人ほど、心に見えない闇を持っていると思う。

「影」ではなく、あえて「闇」。


その闇を正面から受け止め、自分自身で大切にできる人が、輝けるのだと思う。

自分の闇を正面から受け止められていないと、
他人の闇をつついてみたくなるでしょう。

でも、自分の闇を自分自身で大切にできていると、
他人の闇も大切にできる。

目に見えない背景を推し量ることができる。


闇があるから強くなれる。

だから、闇を排除するのではなく、大切にしていきたいと思う。
日常生活という名のの修行の中で、
いろんなことを寛大に受け止められるようになったり、
穏やかな目で見守ることができるようになったり。

それでも、現段階の私には寛大な気持ちで受け止められないことがあります。

なんで、こんなことができないんだろう…。
私、大した人間じゃないな…。

そんなふうに思えてきます。


そんな自分に、言った言葉。


お釈迦様じゃないんだから、
いつでもどこでも立派でいられるわけないじゃない♪


な~んだ。
いつでもどこでも立派な人でいる必要ないんだ!

って気持ちが楽になりました。
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クレマチスには、凛とした美しさがあります。

このクレマチスの花を見て、叩き潰す人がいるでしょうか。

叩き潰されても、また花を咲かせる強さではなく、
叩き潰されない美しさ。

そんな凛とした際立った美しさを手に入れたい。

2010.5.6